最近、ふとしたことから芥川龍之介の『羅生門』を読みました。きっかけは、日常の会話の中で「羅生門を知っている前提」でのツッコミや揶揄が出てきたときに、私だけ意味がわからなかったから。
私は学校でこの作品を勉強した記憶がないんですよね。うまいことスルーしたみたい。
読んだ後で一番気になったのが、「羅生門の老婆は奪衣婆(だつえば)である」という前提のツッコミです。実際に読んでみたところ奪衣婆というのが明確に出てきません。なんで羅生門と奪衣婆がセットで出てくるのでしょうか。
奪衣婆とは?
まず、奪衣婆という存在について簡単に触れておきます。奪衣婆は仏教の死後世界に登場する存在で、三途の川のほとりで亡者の衣服をはぎ取る役割を担っています。その衣服は、生前の行い(業)の深さを量るための道具とされ、衣の重さによって地獄での裁きが決まるといった伝承があるようです。
ただ、実際にその「重さを量る」役割を担っているのは、奪衣婆の隣にいる「懸衣翁(けんえおう)」「奪衣爺(だつえばのじじ)」と呼ばれる老翁で、奪衣婆自身ははぎ取るまでの役割みたいですね。
羅生門の老婆は本当に奪衣婆なのか?
さて、本題に戻ります。『羅生門』に登場する老婆は、荒れ果てた羅生門の楼上で死体の髪の毛を抜いている人物です。彼女は、「髪を抜いてかつらにしようと思った」と説明しています。
ただ、ここで気になるのは、老婆が衣服も剥いでいるのかどうかについては明確な描写がないことです。読者によっては「髪の毛を抜く=死体から何かを奪う」という点で、奪衣婆と重ねたくなるのかもしれません。
けれども、奪衣婆のように「亡者の罪を量るため」に衣を剥ぎ取っているわけではありませんし、最終的には彼女自身が下人に衣服を奪われてしまう立場です。この構図は、奪衣婆の役割とはむしろ対照的とも言えるのではないでしょうか。
なぜ「老婆=奪衣婆」という連想が広まったのか?
それでもネットや人々の会話の中では、「羅生門の老婆=奪衣婆」という見方をする人がまあまあいるようです。この背景には、
「死者から何かを剥ぎ取る老婆」というイメージが重なること
羅生門の物語自体が、地獄のような荒廃した情景の中で描かれていること
といった理由があるのかもしれません。
いろいろ書いたけど…
羅生門の老婆が奪衣婆なのかどうか、明確な答えがあるわけではありません。あまりきちんとした他の文献にあたっていないので、たぶんとしか言えませんが。ただ、原作における描写や役割の違いを考えると、単純に「イコール」とするのは少し乱暴な気もしています。
今回原典を読んでみて分かったことは、安易に教養っぽいノリに合わせていかないことの大切さです。